古いカメラについて 201505所感
コンデジで気軽に撮っていた人が、さあ、一眼レフを買おうと思うのは、たいてい大切な誰かを撮りたいときのようである。
子供の誕生をひかえて新しく買った、という話はよく見聞きする。
かわいく撮って写真に残してやりたい、ファイダー越しにも愛しんで撮りたい、という心情。
わたしの場合は、それが猫だった。
はじめるにあたり、ボディーと明るい単焦点を1本だけ買った。
結局、それで猫を撮ったのは、たった1年とちょっと。病気で坊ちゃんはあっというまに天へかけのぼってしまった。
きっかけが猫ではじまったカメラ。猫を喪い、しばらく機材に触ることもなかった。
次に手にしたのは、閉じた自分を外に向けさせるため。
正直、雄大な風景を見ても、綺麗な夜景を見ても、どこへ行っても、なにをしても、撮ってはいるが、坊ちゃんを撮っていたときほど心躍ることはなかった。
だから、燃料を投下するように、次々とレンズやカメラを買い足した。
欲しいというより、文字通り、停滞せずにこれを続けるために。
疾駆する馬に鞭を当てるように。
そんな理由で買い足した、魚眼レンズの試し撮りでネットでからまれたりと、思わぬ嵐にも巻き込まれたりした。
ヒトというのは所詮、他人の心持ちなど斟酌できないものであるが。。。やれやれである。←ハルキ?
(脱線したので本線へと軌道を戻そう。)
left わず ————————————————————————– right なう
見ればわかるが、旧版はレンズもリーズナブルなもの。
ふつうは買い替えるとき、下取りに放出するものだろうが、収納庫にしまったまま。
猫坊ちゃんを撮したスペシャル機材として、博物館入りみたいになっている。あの古くて廉価なコンデジも。
本当のことをいえば、「カメラは使われてこそのもの」とは思っている。
市場に中古として出回って、安くて手が出しやすいから、と一眼レフの敷居が低くなって誰かが喜んで使ってくれるかもしれない。愛しいものを撮るために。
と、夢想することもあるが、いまだに踏ん切りがつかない。
そうやってどうしようと迷っているうちに、時の流れで壊れて使えなくなったら、心置きなくずっと手元に置いておける気がする。
ヒトにとって思い入れのあるカメラというのは、高価な機材だとは限らない。
流れる音楽に、以前それを聴いていた時代を思い出すように、古いカメラは、あのときなにをどう撮ったかという時間そのものを思い出させる。